ライトブログ

どれかキーを押すと,続行します.

「まね」を考える 第3部

さて、ここまでは、一元的に見て、まねが良いのか、悪いのかということを見てきた。
次に、2つ目の論点である、まねが良いか、悪いかどうかを一元的に決めること
ができるのかという話をしよう。

ここまでの文章で、私はまねには、2つの側面があるのではと思うようになった。
1つは、善意のまね、すなわち、信頼や尊敬がこれに当たる。もう1つは、悪意のまね
すなわち、妬みや憎悪などが挙げられる。まねは、この2つの側面を持っており、
これらは決して分離して考えることのできない、表裏一体のものなのではないかと考えられる。
実に歯切れが悪く、白黒はっきりつかない問題で、私自身も忌々しい気持ちになっている。
結論として、この問題の答えを一元的に導き出すことは困難で、事案ごとに個別
に対応する必要がある
と思う。


まねされた人がまねをした人を安易に批判できないのは、そのまねが善意と悪意
のどちらなのか、はたまた両方なのかが分からない
こと、そして、まねされた人も
どこかで何かをまねしているから
だと私は思う。
すなわち、人は皆、「まねをしつつまねをされる」のではないか。そしてそこには、
善意と悪意がある。だからこそ、人と人の間に、信頼や尊敬、妬みや憎悪等の
様々な感情が生まれるのだと私は考える。これこそが、「つながり」の元なのでは
ないだろうか。



ここまでまねについて書いてきたが、執筆前と後で、私のまねに対する考え方が
悪から善悪のどちらにも染まらないものに変わったことは確かだ。まだまだ考えられる
分野ではあるが、これを考えるだけで一生をつぶしそうなので、止めておくことにする。

様々な方向へ論理が飛躍していて、とても読みづらい文章となってしまったこと
をお詫びすると同時に、そろそろ筆を置こうと思う。


ここまで読んでいただきまして、誠にありがとうございました。